この7月21日、タイトルの守谷市立御所ヶ丘中学校を訪問した。以下はその時の記録である。
関東最後のベッドタウン誕生が期待されるというつくばエクスプレス(TX)は秋葉原と学園都市を最速45分で結ぶという快速新線である。その沿線には、まだ未開発の地域が多く東京周辺最後のベッドタウンとして地元の期待を集めている。 この日は21日で第1学期の終了式の日である。しかし、午前中は授業をするというので、私も少々驚いた。夏休みを前にした終了式の日に授業は成立するものだろうか?生徒の心は浮き足立っているはずだし、生徒がよほど落ち着いていないと授業どころの話ではなくなる可能性がある。 しかし、私の不安は見事に払拭された。私が見たのは3校時であり、教師の話はほとんどが夏休みの注意事情等の話であったが、生徒たちは驚くほど集中して話を聞いていた。 その後に、終了式が行われたので見せてもらった。会場はしんと静まっており、生徒のざわつきもまるでなかった。校長の話や生徒指導主事の話にも、みんなが真剣に耳を傾けていた。これは私が同校の集会の姿である。 静かに話を聞く集会 話をテトラS導入時の平成15年度の当初に戻そう。同校がテトラSの導入に踏み切った時点の話をしておきたい。 4月当初に私が始めて指導に赴いたときには、問題多発校独特の雰囲気があった。導入時には先ず校内全体を見せてもらうのが私のはじめの仕事である。案内されて校内を回ったが、廊下にはゴミが散乱し、教頭先生がそれを拾って歩く、廊下の飾り付けや掲示物もお粗末な状態だった。環境美化に目を向けていられない状態を示していた。 各教室は、どの教室もざわついていたが、それは活気のあるものではなく、私語や出歩き、整頓されていない机や生徒の姿勢から出てくる、けだるさを感じさせた。どの教室でも教師は必死にしゃべっているか、プリントを預けてやりたい生徒だけを相手にしている。居眠りや出歩きは黙認状態だった。教室の床を見ると紙くずや菓子の袋が散乱している。 校内暴力が頻発し、新聞の記事になることもしばしばだということだった。このような学校に限って、保護者からのクレームも多く、そのほとんどは教師や学校のやり方を非難するものであるという。 当時の守谷市の教育長が小川校長に「テトラSの導入」を勧めるる声があったのも、学校の状態を見かねてのものだったようである。 その後、管理職との懇談を行ったが、それぞれに必死に生徒に対応しようとする気持ちが伝わってきた。教師たちもまた、懸命に動いているという。(「これだけの教師の気持ちが生徒に伝わっていない。ムダなエネルギーを消費している」)そう思ったが、このエネルギーが適正に生徒に注がれれば、立ち直りは早いと私は直観した。私は「1年で甦るように頑張りましょう」と教師たちに訴えた。 「私が直すのではありません。先生方が真剣にテトラSの実践の中で、それぞれに行動の密度を濃くしてくれれば、この学校は1年たてば見違えるような学校に変容します」 始まって間もなく対教師暴力が起きたが、教師たちは今までになく落ち着いて対応したと聞いた。テトラSの班会は週1回を定例として行われている様子が辺見ファシリテータからは私に逐一報告があり、疑問点メールでは質問をし即メールで返信するという方法をとった。 2学期に訪問したときには「問題発生は著しく減少したということであったが、教室での生徒はまだ落ち着いているとは言えず、清掃や環境美化にも手が届かないようであった。 この学校の変容の確認はやはり5月であった。「昨年とはまるで違う」という連絡が入った。 学校内は落ち着き、授業も崩壊することはなくなり、校内も見違えるようにキレイになった。ここで、私が辺見ファシリテータに言ったことは「これだけ江落ち着いて、ようやく普通の状態になりました。問題はこれから先ですよ。生徒たちが学校が楽しい。授業が楽しい」という学校を目指すためには、先ず学校が落ち着くことが必要です。さあ、これから先生方が班会ではにを話し合って深めていくかが最大の課題になります」 問題多発校は、このように沈静化するには1年ほどの期間がかかる。 問題は、そこで「ああ、よかった!」と気をぬいてしまっては、教師本位の学校でしかなくなる。 生徒がはつらつと学校生活を送り、勉強に集中するようになるためには、それからが勝負なのである。 いつまでも「学校はつまらない」という感情を生徒が固定観念として持っているようでは、本物の改善ではない。生徒の目がいかに輝くかが目標でなければならないはずである。テトラSを深めていくと、それが必ず見えてくるはずなのである。 御所ヶ丘中学校は、この7月の訪問の時点では、たしかに教師たちが「これからどうするか」をつかみ始めたように見えた。ここで、テトラSをいかに活用するかが同校の課題であろう。 テトラSの最先進校山形県鶴岡市立第4中学校が、導入後8年目になる今日でもテトラSを続けているのは、それだけ学校には改善部分が残されているからであろう。 同時に『AQ活性の魔術』でヒントを与えているように、学校が教育を学校という枠の中で自己完結できるものなのかどうかも、教師間のコミュニケーションが進めば進むほどに明確になり、何をすべきかが分かってくるはずである。 幸い、新任の菊池孝二校長は大変な熱意を示しておられる。新しくファシリテータになった福田理明教諭も、大変な張り切りようで学校をひっぱている。私は御所ヶ丘中学校にも、日本の新しい学校のあり方、教育のあり方の先鞭をつけるべく頑張ってほしいと期待している。 (笠井よしつぐ記) #
by AQ-katsuyo
| 2005-09-22 16:56
| AQマジック
私は2児の母です。子育てについて、常に悩みが絶えません。5歳の長女はおとなしく、あまり手がかからなかったのですが3歳の次女は姉とは正反対で、自己主張が激しく、ことあるごとに姉と競争したがります。 玩具の取り合いにしても、いつでも妹が姉をはねのけてしまいます。ついつい長女が泣くのを見かねて、妹の傍若無人ぶりを叱ることが多くなっていました。しかし、このようなときに、「これでよいのか」という疑問も起きてきて、どう対応したらよいものか悩みが絶えませんでした。夫は仕事で精一杯らしく、子どもたちの性格の違いについて話し合うこともできないでいました。 <著者よりの返事> 東京・2女の母さん、メールありがとうございました。ご活用いただいていることを知り大変うれしく思っております。 本文をお読みいただいて「テトラS」が学校組織の活性化を目的に作ったものであることをお分かりいただいたと思いますが、今回『AQ活性の魔術』を出版いたしましたのは、テトラSの理論はすべての人間関係に当てはめることができると確信したからです。 私は学校の活性化に心血を注いできましたが、学校内問題はすべて家庭や地域社会、社会全体と密に結びついており、「学校だけをよくすれば、教育もよくなる」ものではないことが明白になりました。 子どもは出生と同時に周囲の大人との関係によって、その影響を受けて生育します。これは大人になるまで変わりません。その意味で家庭教育がいかに重要かをお分かりいただけると思います。 しかし、大人の行動が即座に子どもの心にコピーされていくことを自覚して追われる方はどれくらい追われるでしょうか?それを考えると、私は大人の生き方や子育てへの配慮をもっと深めてもらわなければ、乱れを増幅しつつある若者たちを健全な方向に導こうとしても導きようがないと考えております。 このように考えてみますと、「大人が全部変われ」ということになり、「そんな夢のような話を……」と笑われそうに思います。しかし、一事が万事です。大人たちの「自己観察」を少しずつでも広げていくことで、子どもを取り囲む環境はずいぶん変わってくると信じて止みません。 「この本を、もっと多くの人に読んでほしい」というありがたいお言葉ですが、私もそう願っております。しかし、私がどうあがいても、国民のみなさんが手にとって本書を読んでいただかないことには、いかんともしがたいのです。 しかし、投書いただいたおかあさんのような考えをお持ちの方が少しでも増えてくれることで、次第に本書の知名度も上がるのではないでしょうか。貴重な、お言葉を本当にありがとうございました。(笠井よしつぐ) #
by AQ-katsuyo
| 2005-09-18 14:41
| 投稿
8月の第2週、9日(火)~12日(金)は恒例の茨城大学での集中講義だった。
毎年そうだが、今年の暑さは格別だった。しかも、85名という受講者で階段教室を使わざるを得なかった。 「中等教育教師論」という科目だけに、集中講義とはいえ模範的な授業をしなければならないというプレッシャーはかなりのものである。しかし、期間中居眠りするものもほとんどおらず、テトラSの「班会」の体験で、「学生間でこれほど親密に話ができるとは思わなかった」という声が聞けたのは収穫であろう。 毎年課すレポートのタイトルを「私の理想とする教育像」にしたが、そのレポートの文章の一部に、授業の感想に混じって『AQ活性の魔術』の読後感がいくつかあった。若い学生が、この本をどのように読んだのか。その文章の一部を紹介しておきたい。(抜粋) この講義を聴きながら、私の小中学校のころを振り返っていた。小学生時代は、自分が何をすべきかも分からず、ただ先生の言うとおりに付き従っていたように思える。そこには「自分らしさ」を出そうとする気持ちはさらさらなかった。 #
by AQ-katsuyo
| 2005-09-15 13:58
| AQ日記
AQは人の行為の活性度を指すものですが、三重県では「学校経営品質」ということばで教育の質を上げていこうと試みております。この試みは、高校では2年前から小中学校では今年から全県的に取り組んでいるようです。これは授業のAQを高めることに通じております。 折から「少子化」の影響で、高校は間もなく全入時代に入ろうとしています。これは、東京都がすでに通学区を廃止しているように「生徒が学校を自由に選ぶ時代」に入ったことによる、選ばれる側の学校毎の教育品質が問われる時代に入ったことを物語るものです。 毎年4月になると、おかあさんたちから「今年の子どもの担任は当たった。はずれた」という声を聞かされます。これは先生によって教え方や生徒への接し方がバラバラであることから起きる不満の声です。これは教師の指導品質のバラツキを指摘するもなのです。 そこで、三重県のように教育の質を上げなければならないと学校側が考えるのは当然の成り行きだと考えます。三重県では「学校経営品質の向上」と称して各校に研究を求めております。 Quality Controlは企業の生産分野で以前から行われてきました。同じ質の製品を作り出すための管理手法のことですが、「教育の質の管理」となるとどう行うべきなのでしょうか? 学校経営品質を分かりやすく言い換えれば「高い質の教育を均質に供給する」ということでしょう。○年1組、2組、3組の英語の担当教師がA,B,Cとそれぞれに違った場合でも、生徒にとっては、同じ質の教育が受けることができることを意味します。 したがって「あの先生は当てた。こっちははずれだ」というようなことがあっては困るのです。 しかし、実際の学校ではどうでしょうか?先生によって授業スキルもマチマチで均質どころではないのが実情ではないでしょうか? 「教師によって授業スキルの差があることは防ぎようがない」ある教育長さんは、こうぼやいていました。たしかに多くの学校の授業を見た結果は、まさしく教師ごとの差は歴然としています。 ある校長先生は、以前はストーブ談義があり、先輩後輩という考えもはっきりとしていたので、「君の授業はあれではダメだ。板書も考えなさいよ」と教える声や「先輩、○○のような生徒はどう指導したほうがいいでしょうか」と聞くというOJT(On the Job Training)が自然に行われていたが、今は「人に悪く言われたくない」という考えの若い先生が多くなったので、ベテランの先生も「教えて恨まれてはたまらない」と口をつぐんでしまうのが実情だ。と話していました。 そうです。昔はあって今はないものとして「教師同士の横の連携」があるのです。教室での出来事は自分一人で抱え込んでしまう。この状態では、教育のスキルの向上はまるで望めないのは当然です。 そして、先生間の教育スキルの差は大きくなる一方のように思われます。それを危惧して計画したのが三重県の「学校経営品質」ではないでしょうか。 しかし、どうすれば「どの先生も同じような教え方をしてくれる」ようになるのでしょうか? ここに「テトラS+1」の登場の場ができてくるのです。 テトラSの班会で学校の問題を話し合ってゆけば、話が深まるほどに「教育の本質、核心」に近づくことになります。 私がよく言うことですが「教育は教師と生徒の接点でしか成立し得ない」ということに注目しなければいけません。だから、教室へ授業に行く先生には舞台に立つ役者さん同様の研ぎ澄まされた緊張感が必要だと考えます。 それだけの緊張があれば、教材研究や教材の準備にも力が入るのは当然です。その緊張感が、現在の先生方はどのくらい感じておられるでしょうか?平均的に言うと「緊張感不足」が否めないのです。 これでは授業の質が下がるのも当然かも知れません。これでは困るので、「学校経営品質」というような言葉が生まれたものと思われます。これは授業の他に、生徒指導や部活指導も含まれていると思いますが、なんと言っても中心になるのは「授業」のはずです。 授業品質の均質化は、教師同士が連携し切磋琢磨することしかありません。そのための手法として「テトラS」があるわけです。 三重県津市では、多くの小中学校が「テトラS」に取り組み、教師のAQを高めつつ授業の均質化に取り組んでいます。 #
by AQ-katsuyo
| 2005-09-14 14:22
| AQ活用術
この写真は車座になって夏目漱石の「坊ちゃん」を朗読している教室です。子も落ち着いたすばらしい授業風景は、2年半前には想像もできない光景なのでした。学校が甦った姿です。 茨城県守谷市の市立御所ヶ丘中学校は、平成15年(2003)にテトラSを導入しました。当時の同校は、お世辞にも落ち着いた学校とは言えない状態にありました。生徒の暴力行為が新聞で報道されたこともあります。 このような学校の授業は、どうしても落ち着かないものになります。授業中に教室を抜け出した生徒が、喫煙をしていたり、それをとがめた教師に暴力を振るったりすることが間々あるわけですから、落ち着かないのも当然です。 授業も満足に行かない教師にはフラストレーションがたまります。それは必然的に生徒たちにも刺々しい対応になって現れてしまいます。ですから、生徒たちも納得のいく学校生活をエンジョイする気分にはなれません。 これが成績のよい生徒であっても教師に対して好感を持っていないという結果を招きます。それが「教師不信」を招いていました。学校全体は活気のないよどんだ空気に覆われることになります。 教師の心理も当然生産的ではなくなります。このような状況を教師の立場から見ると「今の生徒たちは、身勝手でやる気がない」と写るのです。しかし、生徒たちも「つまらない学校。つまらない先生」と落胆しているのです。どちらにもよくない悪循環です。 先生たちの話を聞くと「子どもたちには、そう甘い顔は見せられない。生徒たちは甘やかされて育ち、耐えることを知らない。それぞれに多様な家庭に育っているのだから、厳しい指導には反発されるしお手上げだ」と言うのです。両者は必然的に関係不全を作り出しているのです。 でも、生徒が多様化しているのはある意味で当然ではないでしょうか。社会はまさに多様化しており、その中で現在まで育ってきた生徒たちです。社会の問題は学校の中にもすべて反映されているのです。これが、「学校は社会の縮図だ」と言われる由縁です。 さて、現代の子どもたちはそのために身勝手でずるがしこく非活動的になっているのでしょうか?その点を深く追究していくのが「テトラSの班会」なのです。「生徒たちについて、教師同士がもっと深く話し合い、共通認識を持とう」として先生たちたちは本気で話し合います。 すると、今まで見えなかったものがはっきりと見えてくるのです。 生徒も教師も落胆している学校という集団!このように考えてみると「これはなんとかしなければ」とどなたも考えるはずです。もちろん先生方も考えていましたが、無力感が先に立っていてその場しのぎの教育を行ってきたと言えると思います。 このように書くと「先生方にやる気がなかったのではないか」という声が起きそうですが、現場でご覧になって下さい。先生方は常に忙しく動き回っています。みなさん熱心です。 ただ、健全な企業なら当然とるであろう「内部改革」ということに気づけなかったのです。それは先生が怠惰だからではなく、戦後の社会がこのような学校風土を作ったと、私は見ています。 経済優先、弱肉強食はやむを得ない、先ず競争ありきだ!とみなさん頑張って来たのではありませんか?学校でも成績競争に活路を求めることが当然であり、社会的要求でもあったと思います。 これは最近になってはっきりと分かってきたことですが、この競争原理の社会が「人を思いやる」という、ごく人間的な感情を人から奪い去っていたように思われます。 実は学校の荒れも「思いやりの欠如」がその根底にあるのです。人の知力を鍛えても人間性はけっして豊かにはなりません。 私は人の能力を5つに分けて考えています。「知力」「感力(感性・情緒性)」「創造力」「判断力」「体力」の5力です。詰め込み教育をせざるを得ない現行教育制度では「知力」を伸ばすことに集中するようになります。社会全体もそれが学校だと勘違いしていたと思います。 感性や判断力を身につけていない少年の犯罪が多発し、目に余る言動も大人たちを安全とさせた原因は「知力競争にあった」ことを改めて訴えたいのです。子どもたちはすべて大人を見倣って成長しています。大人が「こころ」よりも「お金」を選べば子どもたちも、そうなります。これが学校が社会の縮図たる所以です。 「これではいけない」と行動を起こしたのがテトラSの班会で、それに気づいた先生方です。 テトラSでは、先ず客観的に現象を見ることから始めます。それは先ず「自分を見ること」につながるのです。自分を見つめれば、反省が出てきます。そこから先生たちは自らが変わるのです。そして、先生方のAQ(行動の質・活性度)は自然に高まります。 その先生の変化が生徒の心にすぐに響くのです。 先生が変わり、親が変わり、子どもたちを囲む大人たちが変われば、子どもは絶対に変わる。これは自明の理でしょう。これを提唱しているのが『AQ』なのです。(笠井記) #
by AQ-katsuyo
| 2005-08-24 16:43
| AQ活用術
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