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市民の協力なしに登下校中の事故は防げない

またぞろ、小1女児の下校中の災禍があった。

市民の協力なしに登下校中の事故は防げない_e0038448_1433555.jpg 広島市の木下あいかちゃんは7歳のいのちを段ボールに入れて放置された。あいかちゃんと話している様子を目撃した人もいるがそのごに行動を起こしていない。本来なら「何ごとか?」と疑問に思って何らかの確認行動をとって締まるべきだが、目撃者にとっては「他人事」だったのである。

photo by Yoshitsugu Ksai


テトラSのホームページ
では、すでに何度か取り上げているが『AQ活性の魔術』の大きなテーマでもある「教育への地域の関心」について再度考察しておきたい。
 事件に際して校長は「危機管理についてさらに指導を進めたい」と語っているが、この事件は学校の機能外のものであり、学校の指導限界を超えているという線引きを、この際明確にすべきである。「何ごとも学校で」という考え方が教師たちの混乱に輪をかけている。
 学校は一定区域内に立地している。子どもたちの通学の利便性を考慮に入れてのことである。最近、その校区に対して自由化の動きもあるが基本的な動きには変化が起きないはずである。幼少時はとくに通学距離は短いことが肝心なのである。
 学校は、その地域に立地して動かない教育的施設である。すなわち、学校という施設や機能は、その地域のものなのである。
 しかし、長い間「学校の一人歩き」が続き、そのために地域の関心は学校から離れてしまったのである。その理由には多くの要因があるが、一番の要因は教師の地域離れにあるだろう。定期的な異動による教員人事が教師の地域への関心を希薄にさせたのである。
 これは、学校から地域への働きかけが不足することにつながった。『AQ活性の魔術』でもっとも注目していることは、人の関係が人相互のコミュニケーションによって成立しているということである。
 家庭の人間関係、友人関係、教師対児童生徒の関係などすべてがコミュニケーションを軸にして成立しているものである。これは『AQ』に詳述してあるが、人が人として相手を尊重し情報を交換し合うことで、その関係は密度を増す。
 そこで学校での教育を考えたときに、「教育」という人間の成長支援は学校を中心とした子どもを取り巻く大人環境の総合的な働きかけでなければならないことが明確になる。
 それが、こと教育に関しては「学校の丸抱え」や「家庭の学校への丸投げ」の様相があったことは否めない。とくに、学校の丸抱えは学校の閉鎖性につながっていったのである。それは学校の様子が表に伝わらないという現象を招いた。これは、当然コミュニケーションの不足につながったのである。
 しかし、社会の多様化に比例して生徒も多様化した。本来学習指導に重点が置かれるべき学校機能に「生活指導」がかなりのウエイトで、教師たちにのしかかったのである。それは、学習指導に専念できない状態を招いた。
 問題を起こす子の場合、家庭的背景は決まって複雑である。その子どもを指導しようとすれば「家庭」という壁に突き当たるのである。しかし、「丸投げ」的な考えを持つ親ほど学校からの家庭への干渉には拒否的だった。否、それが返って学校批判へと変わることが多かった。
 すべてではないにしても、教師たちは家庭との円滑なコミュニケーションをとることに消極的になっているのである。
 しかし、給食時の好き嫌いや友人関係のトラブルなどを教師がすべてカバーできるはずのないことを考えてみるべきであろう。
 さて、高度成長気前の日本では人がお互いに助け合うという風潮が人間関係の潤滑油として存在した。しかし、「金こそすべて」という考えがわが国を覆い始めたときに、競争原理の名の下に、人は助け合うという伝統的美徳を事前に失っていった。
 子どもがいて、悪さをすれば叱るのはその場にいた大人の役目だった。それで「わが子にかまわないで欲しい」という親はいなかった。だから、家を離れても地域の教育力が働いたのである。子どもは地域の共通の財産だったのである。
 高度経済成長の後は、人同士は競争相手ではあっても仲間同士ではなくなってしまった。
 それが現在のような地域への子どもへの無関心を自然と生んだのである。
 こうなった今、大人たちは何を考えるべきであろうか?世の中は混迷し、なかなか妙案も浮かばなくなった。だからこそ学校の出番になったと言いたい。
 学校は、いつの間にか希薄になった家庭や地域とのコミュニケーションについて、特に重要に考えて欲しいのである。コミュニケーションが関係改善に必ず寄与することは『AQ』では立証済みである。
 「開かれた学校」を謳い文句ではなく現実化させることなのだ。「あなたの子、あなたの地域の子は学校で今こんなことを学んでいます」ということを学校自身が地域に向かって発信する必要性が出てきたのである。
 そうしてこそ、地域の学校への関心は必ず深まるはずである。
 もしわが子が、変な大人にと話しかけられているときに「おかしい。お前はだれだ」という気持ちになるのが当然のはずである。その当然が今なくなっているのだ。それを取り戻すためには、先ず学校から地域への働きかけが必要である。そして、理解し合える関係を築くことこそが急務であるはずなのだ。
 登下校路の安全などは地域がその気になれば、もっとたくさんの知恵がでるはずではないのか。「親が、学校が」と自己完結にのみ考えが行くうちは、解決の道は遠いのではないだろうか?

この記事を出したばかりなのに、今度は栃木県今市市で  12月1日小学校1年生の女児が下校中に行方不明になった。2日午後隣の茨城県で、ほぼ行方不明中の女児と目される少女の全裸死体が発見された。まったく、哀悼の言葉もない。
 学校は、もっと危機感を持って地域住民全他への支援申し込みをすべきである。住民が自ら立ち上がってくれるに越したことはないが、問題意識の共有こそが必要なのである。そのためには、学校からの情報開示と支援の要請が必要である。
 「すべての道路には危険性がある」ということを、国民全員が強く自覚しなければならないだろう。そのためには、以前の向こう三軒両隣のつながりと、道路安全確保のための住民全体での話し合いが必要である。
 それをあなたから周囲への人に働きかける。お互いがその気持ちを持つことで、歪んでしまった社会での安全確保は難しい。対岸の火事と思ってはいけないのである。同じ事件が繰り返されている。みんなが賢くならなければならない。その気持ち、すなわち「自分も動こう」というAQがあれば、このような悲惨な事故はもとより子どもの非行も防げるはずなのである。
他人事を自分事にすることは、そう難しいことではない。自己中心的生活への反省をだれもが持つときがきたことを認識しよう



 (笠井記)
by AQ-katsuyo | 2005-12-01 15:04 | 読み物


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