話し合いの活性化

 話し合う。
 いつでもどこでも、話し合いは行われている。
 ペチャクチャ………。あまりにも普通に使われていることばは、空気のようなものかな?
 あまりにも普通だから、その重要性に気づかない。
 富士山に登って高山病になったときに酸素の重要性を知るようなものだ。

 でも、よく考えてみよう。
 君の話は相手にうまく伝わっているだろうか?
 うまく伝わる話し方、伝わらない話し方が当然ある。
 AQ(Activity Quality)の高い話し方は、伝わりやすい話し方になる。

 いかにして、うまく相手に伝えるか?
 それを工夫を重ねればAQの高い話し方に変わるものだ。

 特に家庭では、手抜きの会話がまかり通りやすい。
 ひと頃、「めし、風呂、寝る」というダンナのことばが当然のように言われた時期があった。そのダンナたちは、今頃定年になり粗大ゴミになったり、ひどいのは離婚届を突きつけられていはしないだろうか?

 どんなことばでも、自分の中で噛みしめてからことばを発すれば、相手を怒らせることも少なくなる。

 手紙を書くときに、下書きをしている人を見かけるが、その心構えがあれば相手を傷つけることばが不用意に口をついて出てしまうことはないだろう。

 自分のことばがどのように相手に伝わっているか?自己評価して見てはどうだろう?
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# by aq-katsuyo | 2008-02-10 14:29 | AQ活用術

PTAについて

 孫が通う小学校のことで考えました。
 この小学校では来年度のPTA会長を決めるに当たって、推薦委員会なるものがあります。来年度人事を早く決めるのはいいことだと思いますが、この委員会は月に何度か集まって、候補者が決まったのは10月頃だったと思います。
 約半年に亘って「ああでもない、こうでもない」と半日近く話し合うたいへん忙しい委員会でした。私はこれを見て「何かポイントがずれている」と感じました。これには学校はノータッチなのですが、もう少し学校側の参加があってもいいのではないかと考えたのです。

 ここでは学校とPTAがどうしても一線を画しているように思えてなりません。
 実は半年に亘る委員会の席上では、主にお母さんが構成員ですから、わが子の話や担任の話が出たようです。このこと自身は当然のことですが、その話の中には問題の先生のことや情報開示を「個人情報保護法」にこだわって不審者情報までも教頭が握りつぶしているという情報も聞こえてきたようです。

 私がこの話を聞いて感じたことは、学校はまだ自らの塀を維持しようという気持ちが勝っているということでした。これでは、この委員会のように週に一回は集まる貴重な保護者の会合を学校は有効に生かそうという気持ちがないということでした。
 学校はあらゆる機会を捉えて学校からの情報を流し、学校を深く理解してもらおうとする努力が教育の仕事を円滑に行う上で、たいへん重要であるということを理解していなければなりません。
 保護者、そして周辺住民が学校の様子を深く知れば知るほどに、何か問題があれば、その解決に協力しようという気持ちになるのです。

 ここにも自分を知ってもらおうとする学校の意識の希薄さを感じました。学校はあれこれ取捨選択し、言葉を選ぶ前に先ず学校の考えを地域に知ってもらうことが使命であると考えます。それがとくに義務教育の教育機関の責務だと思っています。

 この学校の姿勢があれば、地域の協力姿勢はいやが上にも高まるはずなのです。
 この地域でも、不審者情報は絶えません。これは、住民全部の目が光っていれば相当数防御できるはずだと考えます。
 ところによってはPTAの動きがかなり不活発だという話も聞きます。
 
 街角でタバコを吸う中学生を見つけたら、あなただったらどうしますか?
 一番多く聞かれる答は、「学校に連絡する」という声です。これはどう見てもおかしいのです。学校から帰って遊んでいる子どもたちは家庭の責任で保護するものだし、地域内での非行は地域で指導するのが当然ではないでしょうか。

 ここに見られることは子どものことはすべて学校に丸投げするという姿勢ですし、学校ででもこれを丸抱えしているという姿がうかがえます。
 それが証拠に、「○○コンビニでお宅の中学生がタバコを吸っている指導してほしい」という電話に、先生が受話器に頭を下げながら現場に直行するというのがパターン化しています。

 子どもは親が育て大切なルールは地域がしつけるというむかしからの日本の流儀があります。そのために地域も一体化していたのです。しかし、利己主義の充満で「隣近所の一体感」はいつの間にか崩れてしまってきています。

 これを客観的に見ると何一つプラス面がないことが分かります。
 この間違った日本社会の流れにくさびを打つためにも、先ず学校が地域の一体化に一役買う気概を持つべきではないでしょうか。それが、やがて学校教育の上で地域の協力を得られることに結びついてくるのです。
 学校は常に巨視的な観点に立つことが必要だと思います。生徒指導のたいへんさは小学校も中学校も日を追って度を増しています。
 しかし、それ大部分は親の責任です。家庭、地域の子育ての歯車がかみ合わなくなっているために、教師は本来の仕事をはずれたところで苦労しなければならなくなっています。その苦労も学校の抱え込みのせいで外に見えないのです。
 
 「生徒指導は徒労だ」だと私は言いたいと思います。親や地域の大人の仕事を背負い込んでいて肝心な授業が見に入らないようでは、先生方の見識も疑われます。

 これはどちらがよい悪いではなくて、十分な話し合いの中から、もう一度役割分担を明確にすべきだと思うのです。そのためには、主導権を握る学校からもっと十分なコミュニケーションを図るにはどうしたらよいかを、提案してゆくべきだと考えます。
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# by AQ-katsuyo | 2006-03-06 15:34 | AQ活用術

原点に還る

 近ごろ、日本の伝統文化が見直される傾向にあります。
 工芸部門では手作りが重んじられてきましたが、生活雑貨は大量生産品に制覇されていました。しかし、どういういたずらか原油高の中での石油の高騰で暖房費が高くついています。
 そこで「湯たんぽ」が大もてなのだそうです。これなど「ウォームビズ」の代表格ではないでしょうか。ブリキの湯たんぽを作る工場は大忙しのようです。このような話を聞くと先人の知恵が少し見直されているようでうれしくなります。
 高度成長期の日本は消費社会であり、使い捨て文化が主流を占めています。だが、環境の保護という新しい課題が出てきて、日本ばかりでなく使い捨てには反省の声が高くなっているようです。
 お金至上主義と言われたホリエモン氏が、司直の手で裁かれる段になって、お金で買えないものについての認識は高くなっていると思われます。
 働く女性が多くなって少子化には拍車がかかっていますが、経済と生活文化のバランスについてもっと考える機会が多くなると、お金という微視的なものから、人間としての生き方という巨視的な考え方がされるようになるはずだと思っています。
 お金という概念は刹那的な生き方にとっては最重要なものですが、「人の一生」がお金で縛られていることは嘆かわしいことのように思います。

 動物は人間ばかりでなく親の庇護のもとで育つことが当然になっているものが大部分です。しかし、現在でも小学校が放課になっても家に親がいないから帰宅できないでいる子どもは多いのです。そのために学童保育などの施設が作られていますが、その子どもたちは果たして幸せなのかは論じられません。それはむしろ禁句なのかも知れません。
 はっきりと言えることは保育施設に向かう子どもたちの心は決して晴れていないと言うことなのです。まっすぐ帰宅できる子を、本当にうらやましそうに見ています。このような気持ちをもって過ごしているわが子について、働いているお母さんはそれを十分に分かってあげているでしょうか?
 それはお母さんが働かなければならない環境の家庭も必ずあることは事実です。しかし、どんなに経済的に貧していようと子育てをしている間は、親の義務として子どもが健全な精神を持って持って成長するように最大の注意を払うべきだと思うのです。

 話がちぐはぐに聞こえそうですが、私が言いたいのはお金がすべてではないと言うことです。また、私たちの先人が豊かではない生活の中で残していった知恵は実に膨大にあります。それに目が注がれない時代がここのところ続いていることだけは、はっきりと認識すべきだと思うのです。
 それは前述した工芸などだけではなく、広い範囲に渡って多くの知恵の遺産があるのです。貧しくても明るく生きた先人たちの知恵は決して貧困時代のかわいそうな話だけではないと思います。
 その辺の理解に「ねじれ」があるように思えます。
 そのいい例が、今の子どもたちはだれのために勉強していると思っているでしょうか。多くの子が「先生に、親に勉強をやらされている」と思っているのです。これでは勉強に熱が入らないのは当然でしょう。
 人は自ら見つけた目標があれば努力します。しかし、人から与えられた目標に対しては消極的であり、批判も多くなります。これは個人主義がわがままになり利己主義になっているためですが、人の本性を考えると「個」として独立して生きていくことは出来ないのです。
 そうであれば、まわりの人と手をつなぐことは当然になります。と言うことは「まわりの人の言うことにも耳を傾ける」と言うことにつながります。自己主張だけでは世の中成立しないのです。この辺から、先人に学ぶという発想も当然出てきますし、それこそ「原点に還れ」と言うことだと思うのです。
 自分を大事にすることは重要ですが、同時にまわりも大事にしなければならないことをもっともっと意識しなければならない時代であると考えています。分かっているようで、それを自分の生活に生かせないのが現状ではないでしょうか。
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# by AQ-katsuyo | 2006-02-07 12:22 | 読み物

年頭に考える

 関東地方は元旦の群馬での実業団駅伝、2日は箱根駅伝と恒例のスポーツ行事で幕を開けました。
 新年に臨み、この国の来し方行く末などを考えてみました。
 昨年は若者の間で「びみょー」という言葉が流行ったようです。その意味は「微妙」とは微妙に違うようです。
 「きみ、この仕事を引き受けてくれないかな」
 「はぁ、でもびみょーですね」
 このような例が適当かどうか疑問ですが、YESともNOとも言いかねるときにもこの言葉が使われるようです。
 石原慎太郎氏が「NOと言えない日本人」と言ったことがあります。これは日本人の外国人に対する弱腰を揶揄したものでしたが、ビジネスの世界ではそうであっても果たしてそれはいけないことだったのでしょうか?しかし、今はYESかNOかの時代になってきたように思います。
 昨年暮れに京都で起きた塾講師の塾生殺しのニュースなどを見ておりますと、指導が困難な生徒は殺すしかないという短絡的な動機のようです。これは黒白(こくびゃく)をつけないと気が済まないという気持ちが起因しているように思います。
 なるほど、近年は成績がよい・悪いという尺度だけで生徒の価値が決められてしまう傾向が大変顕著です。高校、大学の入試もその判断基準を中心に行われています。その中で、学力の国際比較が落ち込んできたので、文部科学省は学習指導要領を又変えようとする気配です。学校での学習結果は通信簿として反映され、家庭ではわが子の評価をそれを基準に行うようになっています。
 その結果が「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」という大人たちの言葉になっているように思います。もちろんそれは結構なのですが、近ごろの子どもは「キレやすい」と言われております。私は、その要因を大人たちの大人たちの一方的な黒白を決めつけて子どもたちに投げつける言葉にあるように思っております。
 子どもたちにとって「yes」か「no」しかない大人のことを大変窮屈に感じるのではないでしょうか。大人は、子どもに対して一方的に気持ちをぶつける割りには、子どもとじっくり話し合う機会が減っている家庭が増えているようです。それは、子どもにとって一方的な抑圧に映るはずです。そこで、我慢の体験の少ない子がキレます。あるいは感受性の強い子も自己表現ができないまま、キレて暴力やその場からの逃避を図るのではないでしょうか。
 大人はそのような子どもにどれだけ寛容にしているでしょうか?意外にも、子どもがキレたときに大人も一緒にキレていることが多いようです。大人も又「yes,no」の世界にどっぷりつかってしまっているようです。
 「yes」と「no」だけの世界は大変窮屈です。そこには、日本に古来からある「間」や「含み」というものが見当たりません。それは子どもの逃げ道を遮っていることではないでしょうか?子どもの世界に広い意味での「遊び」がなくなっているのです。
 そのような世の中を作り出したのは「経済至上主義」という「お金がすべてだ」と考える日本社会の風潮だと思っています。極言すると勉強するのは将来のお金のためだとする考え方です。これは非常に直接的な考えです。物事を間接的に考えるという技術の下手さを子どもたちに見るのですが、よく見ると大人たちも同じになっています。これがすぐに黒白をつけたがる思考につながっていると思います。これは「話し合ってみよう」とする場面を作りにくくしているように思います。すなわち、間や含みができないのです。
 このような社会で育つ子どもは不幸ですし、そういう社会はどう考えて不健全だと思います。この不健全さが続くと、お互いのコミュニケーションがないままの大人たちが出来上がってしまいます。親子の心の通い合い、向こう三軒両隣の人間の交流の復活によって、それは防げます。
 今年は、新しくなくてもよい。昭和の良さを見つけ、そこに回帰することで未来が明るく見通せる答が見つかりそうに思います。
 「生徒が宇宙人に見える」とある先生は揶揄していましたが、人間の本質にそう変わりがあるはずがないと思うのです。大人自身も、進歩しないと宇宙人との交流ができなくなりそうに思います。
 著者は、「話し合い」すなわちコミュニケーションの復活による人間関係不全からの脱却を訴えていますが、今年も私の微力を健全な社会の構築に向けて捧げていくつもりです。 
      
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# by AQ-katsuyo | 2006-01-04 13:02 | 読み物

年の終わりに

 クリスマスも終わり、いよいよ歳末ですね。
 十大ニュースも発表され、流行語大賞なるものも例年のごとく発表されました。そのいずれを見ても楽しい話はわずかであるのが侘びしい限りです。
 このブログも楽しい話よりも、苦言や問題提起が多かったように思います。
 しかし、最近つくづく感じるのは若い人の中に爆発的なエネルギーを発揮している人が多く見られるようになったことです。とくに芸術部門やスポーツ部門で天才的な若者が多く出ました。
なかでも歳末に行われたフィギャースケートでの浅田真央さんは、オリンピック制限年齢に達していないということで代表には選ばれませんでしたが、頼もしい話です。
 このような人の話を聞いていると、自分をよく見つめていることに驚かされます。しかし、半面で歳末番組のクイズの回答者に芸能人や有名人がたくさん登場しているのを見ましたが、一般常識と思われている用語や故事成句などにまったく弱いことには落胆しました。
 そう言えば、今年はわが国の人口が初めて減少に転じました。いわゆる少子化の本格化です。それもあってか、国の無駄遣いにもようやく歯止めがかかり始め、来年度は超緊縮予算と国民の負担増型予算になりました。国民にとっては暮らしにくい世の中になることは避けられないようです。
 私にとって、今年の最大の話題はやはり「憲法改正」が本格的に政治のまな板に乗ったことです。意味不明の憲法前文や、苦しい解釈が続く憲法9条などは、いずれにしてももっと分かりやすくしてほしいと思っておりました。
 しかし、「憲法改正」というのは国民全部の大きな出来事です。そのためには、国民も憲法についてもっと勉強をしておくべきではないでしょうか。同時に「教育基本法」もかえられる見通しです。大きな意味で私はこれに賛成です。
 戦後の日本にもっとも欠けてしまったものは、自分たちが住んでいる日本という国についての教育が大きく欠落していたことのように思います。
 事実、近代史については学年の終わりになることもあり、実に大ざっぱにしか授業に登場しないという事実があり、国民自身が自分の目で国の歴史を認識するということにかけては、往々にして外国人に驚かれるくらい無知であるというエピソードが語られる始末です。
 わが国は、戦後資本主義社会で大きな発展をしましたが、その発展の根っこになっているものは「拝金主義」という軽薄なものに支えられてきたと言われています。その背景に、哲学や心がかけていたというのが今になって言われています。
 これは、人はなぜ生きるのか?という基本的命題にも軽薄な答しか持たないまま生活してきたと言うことではないでしょうか?そう言えば、国政治にも哲学が欠けていたように思います。
「国とは何か」「日本とはどんな国か」「自分はなぜ生きているのか」というような話題から、あまりにも遠ざかって生きてきてしまったようです。
 その結果、自分なりの生きる哲学をしっかりと持っている人が少なくなったのではないでしょうか?
 来るべき年は、そのような話をもっと日常的にするような生活をすべきだと考えています。
 
 夜空を見上げると、冬の星座が寒空に輝いています。その時にふと、宇宙の悠久な営みに接することができます。ぜひ、そこから人間が存在する根源的なものを考えてみてはどうでしょうか?
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# by AQ-katsuyo | 2005-12-26 17:40 | 読み物

市民の協力なしに登下校中の事故は防げない

またぞろ、小1女児の下校中の災禍があった。

e0038448_1433555.jpg 広島市の木下あいかちゃんは7歳のいのちを段ボールに入れて放置された。あいかちゃんと話している様子を目撃した人もいるがそのごに行動を起こしていない。本来なら「何ごとか?」と疑問に思って何らかの確認行動をとって締まるべきだが、目撃者にとっては「他人事」だったのである。

photo by Yoshitsugu Ksai


テトラSのホームページ
では、すでに何度か取り上げているが『AQ活性の魔術』の大きなテーマでもある「教育への地域の関心」について再度考察しておきたい。
 事件に際して校長は「危機管理についてさらに指導を進めたい」と語っているが、この事件は学校の機能外のものであり、学校の指導限界を超えているという線引きを、この際明確にすべきである。「何ごとも学校で」という考え方が教師たちの混乱に輪をかけている。
 学校は一定区域内に立地している。子どもたちの通学の利便性を考慮に入れてのことである。最近、その校区に対して自由化の動きもあるが基本的な動きには変化が起きないはずである。幼少時はとくに通学距離は短いことが肝心なのである。
 学校は、その地域に立地して動かない教育的施設である。すなわち、学校という施設や機能は、その地域のものなのである。
 しかし、長い間「学校の一人歩き」が続き、そのために地域の関心は学校から離れてしまったのである。その理由には多くの要因があるが、一番の要因は教師の地域離れにあるだろう。定期的な異動による教員人事が教師の地域への関心を希薄にさせたのである。
 これは、学校から地域への働きかけが不足することにつながった。『AQ活性の魔術』でもっとも注目していることは、人の関係が人相互のコミュニケーションによって成立しているということである。
 家庭の人間関係、友人関係、教師対児童生徒の関係などすべてがコミュニケーションを軸にして成立しているものである。これは『AQ』に詳述してあるが、人が人として相手を尊重し情報を交換し合うことで、その関係は密度を増す。
 そこで学校での教育を考えたときに、「教育」という人間の成長支援は学校を中心とした子どもを取り巻く大人環境の総合的な働きかけでなければならないことが明確になる。
 それが、こと教育に関しては「学校の丸抱え」や「家庭の学校への丸投げ」の様相があったことは否めない。とくに、学校の丸抱えは学校の閉鎖性につながっていったのである。それは学校の様子が表に伝わらないという現象を招いた。これは、当然コミュニケーションの不足につながったのである。
 しかし、社会の多様化に比例して生徒も多様化した。本来学習指導に重点が置かれるべき学校機能に「生活指導」がかなりのウエイトで、教師たちにのしかかったのである。それは、学習指導に専念できない状態を招いた。
 問題を起こす子の場合、家庭的背景は決まって複雑である。その子どもを指導しようとすれば「家庭」という壁に突き当たるのである。しかし、「丸投げ」的な考えを持つ親ほど学校からの家庭への干渉には拒否的だった。否、それが返って学校批判へと変わることが多かった。
 すべてではないにしても、教師たちは家庭との円滑なコミュニケーションをとることに消極的になっているのである。
 しかし、給食時の好き嫌いや友人関係のトラブルなどを教師がすべてカバーできるはずのないことを考えてみるべきであろう。
 さて、高度成長気前の日本では人がお互いに助け合うという風潮が人間関係の潤滑油として存在した。しかし、「金こそすべて」という考えがわが国を覆い始めたときに、競争原理の名の下に、人は助け合うという伝統的美徳を事前に失っていった。
 子どもがいて、悪さをすれば叱るのはその場にいた大人の役目だった。それで「わが子にかまわないで欲しい」という親はいなかった。だから、家を離れても地域の教育力が働いたのである。子どもは地域の共通の財産だったのである。
 高度経済成長の後は、人同士は競争相手ではあっても仲間同士ではなくなってしまった。
 それが現在のような地域への子どもへの無関心を自然と生んだのである。
 こうなった今、大人たちは何を考えるべきであろうか?世の中は混迷し、なかなか妙案も浮かばなくなった。だからこそ学校の出番になったと言いたい。
 学校は、いつの間にか希薄になった家庭や地域とのコミュニケーションについて、特に重要に考えて欲しいのである。コミュニケーションが関係改善に必ず寄与することは『AQ』では立証済みである。
 「開かれた学校」を謳い文句ではなく現実化させることなのだ。「あなたの子、あなたの地域の子は学校で今こんなことを学んでいます」ということを学校自身が地域に向かって発信する必要性が出てきたのである。
 そうしてこそ、地域の学校への関心は必ず深まるはずである。
 もしわが子が、変な大人にと話しかけられているときに「おかしい。お前はだれだ」という気持ちになるのが当然のはずである。その当然が今なくなっているのだ。それを取り戻すためには、先ず学校から地域への働きかけが必要である。そして、理解し合える関係を築くことこそが急務であるはずなのだ。
 登下校路の安全などは地域がその気になれば、もっとたくさんの知恵がでるはずではないのか。「親が、学校が」と自己完結にのみ考えが行くうちは、解決の道は遠いのではないだろうか?

この記事を出したばかりなのに、今度は栃木県今市市で  12月1日小学校1年生の女児が下校中に行方不明になった。2日午後隣の茨城県で、ほぼ行方不明中の女児と目される少女の全裸死体が発見された。まったく、哀悼の言葉もない。
 学校は、もっと危機感を持って地域住民全他への支援申し込みをすべきである。住民が自ら立ち上がってくれるに越したことはないが、問題意識の共有こそが必要なのである。そのためには、学校からの情報開示と支援の要請が必要である。
 「すべての道路には危険性がある」ということを、国民全員が強く自覚しなければならないだろう。そのためには、以前の向こう三軒両隣のつながりと、道路安全確保のための住民全体での話し合いが必要である。
 それをあなたから周囲への人に働きかける。お互いがその気持ちを持つことで、歪んでしまった社会での安全確保は難しい。対岸の火事と思ってはいけないのである。同じ事件が繰り返されている。みんなが賢くならなければならない。その気持ち、すなわち「自分も動こう」というAQがあれば、このような悲惨な事故はもとより子どもの非行も防げるはずなのである。
他人事を自分事にすることは、そう難しいことではない。自己中心的生活への反省をだれもが持つときがきたことを認識しよう



 (笠井記)
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# by AQ-katsuyo | 2005-12-01 15:04 | 読み物

「自分」を見失っている人

 最近、とくに感じるのだが「自分は自分だ。人の話は聞けない」と決め込んでいる人が結構多く、その人が集団の和を崩しているということです。
 いわゆる自己チューと呼ばれる人なのだろうが、私には「かわいそうな人生を送っている人」としか見えないのです。その人たちは、人の悪い点だけを見て批判します。誉めることはしないので人を認めたくないのかも知れません。
 人は人それぞれの生き方をしているのだから、それでいいのではないのかと見る人も多いようですが、私から見るとそれが周囲の人に害毒を流すこととつながっていると思えます。
 テトラSを先生方が一丸になって頑張って実践した結果、見違えるようないい学校になったとます。しかし、その中に「なんだ、これくらい当たり前じゃないか。私は、いつでもこれくらいのことはできる」と冷ややかに見ている人がきっといます。
 すると、その人には学校の悪い点だけが見えてくるようになるようです。生徒に優しく接している先生は「生徒にゴマをすっている」と見えるようです。だから「学校がよくなった」とみんなが喜んでいても、「不登校の生徒がいるじゃないか、それを見捨ててごまかしている」といった人もいます。
 一挙にすべてがよくなるなどということは、世の中にはありません。だから、学校の中に見落としている部分があることに気づいたら、先ず自らがその解決に努力すべきでしょう。みんながそうすることによって、学校がどんどんよくなるのです。
 しかし、批判をする人に限って自らは動こうとしないのです。懸命に仕事をする人を見て嘲笑っている。批判をすることで「自分はなんでも知っているのだ」と優越感を感じているのかも知れませんが、そういう人は「自分を見失った人」ではないでしょうか?自己を見失った人は、自分の存在する座標が見えないのです。
 でも、そのような人が組織内にいると傍に与える影響はすごく大きいのです。
 あなたの周辺を見渡してください。そのような人に、迷惑を感じていることはありませんか?
 私は、そのような人に出会ったときは自分に気づくように忠告するようにしていますが、それをも無視する人がいます。なんと貧困な人生を歩んでいる人なのでしょう。
 インド洋の大津波は過去に類を見ない被害と犠牲者を出しました。援助も支援もまだまだのようです。しかし、援助物資を積んだ車がくると、まるで略奪するように物資を持ち去る人がニュースに映し出されるのを見ました。この人たちは生死の間を彷徨っているのだから仕方がないのかも知れません。
 しかし、人生とは大げさですが「生死の間を彷徨うようなもの」ではないでしょうか。そのようなどろどろとした世の中だからこそ「人間らしさ」という精神性が求められるのではないでしょうか。今の世の中は、すべてが競争(あらそい)の中にあります。その中で生き残るには、「他人をけ落とす残忍さがなければ生きて行けない」ということを生活信条にしている人もいるのかも知れません。
 でもこのような生き方を肯定してしまったら、それではこの世の中、あまりにも寂しすぎはしないでしょうか?とくに明日を生きる人たちを教育している人の中に、このような考えを持つ人がいるのは、はっきり言って迷惑そのものだと思います。
 教職が「聖職」と言われるのも、教育者への人々の期待が込められた言葉だと思います。
 この文章を綴ったのは、実際にこのような言葉を耳にしたから、どうしても書かねばならなかったのです。『AQ 活性の魔術』は、そのような人にこそ読んでほしいという願いが込められております。精神的に貧困であれば、その人のAQ(ActivityQuality)は当然低くなります。子どもたちが明日への夢を持つためには、まわりの大人、とくに教師が夢を持っていなければなりません。
 人生の夢は、人生を否定的にしか見られない人には与えられないものであると思うのです。先生方には豊かな夢を持っていただきたい。そう思う気持ちが強いから、私は日々教育をよくするために微力を尽くしています。
 大人たちが自分の座標を常に確かめながら生きてさえいれば、子どもは必ず健やかに育つはずです。そう信じています。
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# by AQ-katsuyo | 2005-10-26 14:03 | 読み物

言うことを聞かない女児に悩んでいます

小学校の女教師で7年目に入りました。いま、小学3年生の担任をしています。クラスは34名ですが、一人の女児が、私の言うことを聞かないで反発をするので困っています。ちょうど『AQ 活性の魔術』に出合い、「生徒が教師の言うことを聞かなくなった」の項目を何度も読みました。
 たしかに、私の場合相談する同僚もおりません。女児A子の家庭の状況ですが、両親は共働きの家庭で、Aは兄と弟に挟まれた3人兄弟の2番目です。兄も弟も本校にきていますが、それほど問題はないようです。先日家庭訪問をしましたが、父親の帰りは遅くお酒が好きなようです。母親は勝ち気な性格のように見受けます。家庭では、兄弟を仕切るほど、よく気がつく子だという話です。
 最近、他の児童も巻き込んで授業を乱されることも時々あるようになりました。私は、この本にあるように「テトラS」を本校でもできないものかと思っていますが、私から話し出す勇気はありません。何か、よい方法はない者でしょうか。(岐阜県・小学校教諭)



 質問のメールありがとうございました。先生のような悩みを抱えた先生は全国でたくさんおられるのではないでしょうか?そこで、私の考えを申し上げます。詳しいデータがないご質問ですので一般論になるかも知れませんが、納得できないときはまたご質問下さい。
 A子さんは、家庭ではしっかりとしているように見えますね。そうであれば、なおさらのことA子さんと、じっくりとお話し合いをしたことはあるのでしょうか?私の想像では、たぶん注意をすることが先に立ってA子さんの気持ちを察することができるだけの話し合いはされていないように思うのですが、どうでしょうか?
 普通、クラスには何人かの問題児がいることは当然と考えられます。それぞれの生育環境が違いますから、先生の考えにそぐわない児童が出てきても当然と考えられるのです。だから、先生の一声で同じように動かすのは、今の状態では無理のように思えます。
 先ず、先生に振り返っていただきたいことは34名の生徒をひとかたまりにして同時に動かそうとしていないかということです。クラスという集団ですから、先生の言うことにしたがって動くのは当然だと、だれもが考えがちです。
 しかし、その前に児童一人ひとりとの信頼関係づくりは構築されているでしょうか?関係づくりをするためには、それぞれの児童が個々の人格をもっている人間なのだという認識が必要です。
 『AQ 活性の魔術』の中でも、話し合うことの重要さに何度も触れていますが、何気ない会話でもいいから児童一人ひとりと真剣に接することが肝心なのです。児童たちが「先生は私たちを認めてくれている」という実感をもたせるためには、先生が子どもたちをより深く知ろうと努力することが必要です。その先生の気持ちは、児童への何気ない言葉の端はしに出てきています。 こうして、児童ととの信頼関係ができればクラスをひとかたまりの集団として動かすことが可能になるのです。いわゆる先生風を吹かせて児童を導こうとしても、今の子どもたちはそれほど従順ではないはずです。
 先ず先生から、という順序を考えて児童一人ひとりを見てください。きっと、クラスの空気が変わるはずです。
 さらに、追い打ちをかけるようになるかも知れませんが、相談する同僚がいないのはなぜでしょうか?あなた自身が心を開いて同僚に接しようとしていますか?これは、教師同士の関係のところを参照してみてください。きっと、あなたの心を聞いてくれる同僚がいるはずです。あなたが心を閉ざしていて、だれにも相談できないと思っているのは寂しい生き方ではないでしょうか?
 そのように、先ず自分のやり方を振り返ってみて、直すべきところを直しても尚かつ問題が解決しない場合は、あなたの学校の教師全体の関係が不全になっていると考えられます。その場合は、あなただけが悩みを抱えているだけではなく、学校内にいくつもの問題がくすぶっているはずです。
 このようなときこそ「テトラS」で、教師同士の人間関係を修復しなければなりません。修復することは教師の義務として果たさなければならないことです。それは、教師の仕事は児童・生徒に楽しい勉強の環境を与えることにあるからです。
 それをしないで放置することは、教師の怠慢としか言いようがないのです。常にベストの教育を施すことが教師の義務ではないでしょうか?
 もしあなたが、私の意見に同感であれば、学校がそうなるように身を挺して頑張ってみてください。その行為は、あなたのAQをぐんと高めることになるのです。
 話が抽象的すぎたでしょうか。疑問があれば、さらに気楽に質問してください。(笠井よしつぐ) 
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# by AQ-katsuyo | 2005-10-13 18:01 | AQ活用術

AQの高い人たち(山崎豊子さんの小説の世界から)

 この一ヶ月で山崎豊子さんの長編小説を3作を読んだ。『沈まぬ太陽』(新潮文庫全5巻)『華麗なる一族』(〃3巻)『不毛地帯』(〃全4巻)。全12冊をほとんど一気に読んだ。読んだと言うよりも、読まされたというのが正しいかも知れない。
 フィクションであると謳ってはいるが、詳細克つ膨大な取材によるものであり、その筆力は読む者を引きずり込んで離さない魅力を持っている。
 『沈まぬ太陽』はJALを舞台にしたもので、ノンフィクションに近い部分が多く含まれている。『華麗なる一族』は関西の銀行家一族を主体にしてストーリーが展開されている。『不毛地帯』は旧陸軍の大本営参謀のもと中佐が、終戦後シベリアに抑留され帰国後商社で活躍する話である。
 どの作品も周到で膨大な取材によって構成されているので、読む者にとってはノンフィクションを読む思いで、政財界をあれこれ想像しながら読み進める。
 この読後感を、AQのブログに載せる気になったのは、それぞれの登場人物の一人ひとりのAQ(行動の活性度)が、大きな組織や政治をも巻き込んで動かしていく点に注目したからである。
 『沈まぬ太陽』は日本航空(本文では架空の名称になっている)の戦後の復興期から御巣鷹山日航機墜落事故までの時期を書いている。この5巻を貫いて描かれている主人公は有能なるが故に、上司に怖がられてあえて彼と対峙することを避けられて、不遇の仕事に甘んじなければならない。
 ひとりの有能な社員に対して企業という組織はここまでも、陰湿で冷酷な仕打ちをし続けるものなのだという現実と、結局はむしろ無能な管理職が世渡りのうまさだけで、組織の上に君臨しているという人間の愚かな部分を鋭く描き出している。「出る杭は打たれる」は今も変わっていないということである。

 話は恩地元という社員を中心に展開される。彼は無理矢理の形で組合の委員長にされるが、会社のご用組合の色彩が強いものであったが、利益追求のために旅客のいのちの安全を軽視するかのごとき労務管理に、各部門が抱える大きな不満の解消を求めて経営陣と対峙した。その結果当時マスコミを賑わしたストライキ突入に至るのであるが、その指揮を執った恩地への仕返し人事は非道を究めるものであった。
 主人公である恩地のリーダーシップの才能が高すぎるが故に、上司は怖れると同時に彼への徹底した抑圧が始まる。それは、海外の僻地から僻地へと飛ばされることで報復されるのである。
 恩地は委員長時代の彼を慕う一部の社員の支えで、強く生きる道を選ぶのであるが、恩地のAQはどこの地に行っても衰えることがなかった。どのような仕打ちにも打ち勝って、それなりの成果を上げていく彼を上司たちは、怖れを抱いてさらに抑圧を強めるのである。
 この作品では人の本性とは、ここまでも動物的に卑しく残虐になるものなのかを延々と描き出す。これは、子どもたちの友だち遊びの中で繰り広げられる「いじめ」に輪をかけて残虐なものである。

 そのような設定の元に、企業内の人間関係、企業対役所の汚れた癒着のすさまじさと「金と地位」という呪縛に流されていく、日本のエリートといわれる人たちの哀れなまでの生活を余すところなくえぐり取っている。
 『華麗なる一族』も銀行の吸収合併という内幕を一人の銀行家の権勢欲を中心に国家的規模で描いたもので、人が基本的にもっている「どん欲さ」が昂じることで引き起こされる陰謀を、見事な構成力で描き出している。
 『不毛地帯』は第2次大戦終結間際、日本大本営参謀の若い将官壱岐正が極寒のシベリヤ抑留を経て、帰国後商社の一員として生き抜く様を描いているが、これはまさに壱岐という男のAQの高さが、組織や人をどこまで動かし得るかを描ききった作品である。

 このブログに小説の紹介をするのは、人は誕生すると同時に始まる人間としての生き様は、その資質をいかに磨き上げていくかによって天と地の差が出てくるものであることを、よりリアルに実感してもらうためである。
 人としての生き様は日々の一挙手一投足の積み上げに連動しているものだということ、それがAQの差となって現れているのだということを、私自身が実感したのである。
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# by AQ-katsuyo | 2005-10-11 14:18 | 読み物

テトラSの最先進校・鶴岡四中は8年目

 テトラS+1の公式ホームページでは、すでにおなじみですがテトラSシステムを最小に導入したのは平成9年に始めた山形県鶴岡市立第4中学校(本間齊校長)です。
 ここでは導入後8年目に入っております。後から始めて、ある程度の効果を得てテトラSの実践を辞めてしまった学校もありますが、同校ではテトラSをどんどん深化させています。今年6月に行われたテトラSにより学習指導案を作成した研究授業のすばらしさは上記HPにすでに書いております。
 本間校長はテトラS導入後2代目の校長先生ですが「テトラSをやめれば学校が後戻りするような気がして、続行あるのみだ」と語っていますが、それは教育の奥の深さを物語っているように思えます。
 8年前には「学校の荒れをなくしたい」という願望で始められたものですが、今は授業を見ても部活動の活発な様子も目を見張るものばかりです。学校の内部は、すべてが生き生きとしております。
 もう、当時の荒れを体験した先生はわずかしか残っていません。毎年の定期異動で10年ですべての先生が入れ替わります。実は、学校改革のガンになっているのは、この定期異動であるとも言えるのです。せっかく育ったリーダーがすぐにいなくなってしまうのです。
 人材を平等に配置するという観点からは仕方がないのかとも言えますが、教育行政では学校のごとの個性化をどこまで真剣に考えているのかを疑いたくなるのも、この人事異動なのです。しかし、鶴岡四中ではそのハンディキャップをまるで感じさせない動きをしております。
 これは本間校長のリーダーシップに負うところが大なのです。転入者には4中方式を十分に理解させて、学校の流れにうまくエンロールしていっているのです。それがあるから、テトラSの班会のテーマは常に斬新なものを追い続けることができるのだと思っております。

 学校は「教育」を行うことを第一義としています。これは当然なことですが、戦後の教育の流れを見ると教育を学校に丸投げして、後のフォローがなかったように感じます。
 ですから、学校は生徒のすべての面を丸抱えして自己完結をしなければならないと勘違いしてしまったように感じます。学校外での生徒の素行でもすべて学校に苦情が来るようになったのは、その象徴的なものではないでしょうか。これは、家庭や地域の問題のはずです。
 しかし、この問題をいくら言っても現状は変わらないのです。その原因は学校自体にあるようです。学校は丸投げされたものを黙って丸抱えしてしてしまったのです。すべてが学校の責任であると勘違いしてしまっています。

 今鶴岡四中では、このことに気づいて解決策を講じなければならないと行動を始めています。それは「外への情報開示」を強めることです。学校の中身をすべて住民に知ってもらうように学校が動くことが必要なのです。
 それは、今盛んに言われていることで当然のように思われます。しかし、実態は先生方の組織力が相当密接に機能していないと「さあ、学校を見てください」と言いきれない部分が学校にあったことも事実なのです。
 鶴岡四中のように、学校内が見事に整った場合にこそ地域の情報開示を一斉にすべき時だと思います。それによってしか、地域の関心を学校に引き寄せることはできません。私は、同校が、この動きをもっと本格化させるべきだと思っております。
 それは学校を地域のものにするということなのです。それは、本来の学校のあるべき姿です。しかし、もし来年度に今の本間校長が異動するようなことがあると、それも怪しくなるのではないかという不安を感じています。
 管理職のリーダーシップは、このようなときに重要な働きをすることを教育行政や地域住民は忘れてはならないと思うのです。

 鶴岡四中は現在全国の公立校の中でもトップクラスの学校運営をするまでになっております。それは目を見張るべきものです。次は、地域がその伝統を崩さないように学校を支援しないといけないのです。学校は地域のそれを知らせる義務があることは言うまでもありません。

 公立校が私立校に後れを取り始めている地区が多くなりつつあります。その大きな原因は学校組織と地域の連携、管理職のリーダーシップを的確に評価する人事行政が、うまく機能していないところにあるように思えます。(笠井記)
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★鶴岡四中本間齊校長先生からメールをいただきました★


 本校の記事を載せていただきありがとうございます。
 学校は今、合唱祭に向けてその練習の歌声で朝から活気があります。音楽の授業、昼休み、放課後と一日中歌声が響く学校は素晴らしいと思っています。だみ声のただ大きい声だけの合唱が、きれいなハーモニーに変わるその過程を聞いていると、毎年楽しくなります。

 先日、三重県内の教育事務所から学校視察を打診され、12月初めの生徒会役員の立候補演説・投票日でも良ければということで引き受けたところです。お出でいただく先生方に満足いくお話ができるかは心許ないのですが、少なくとも私達にとっては、他県の先生方のお話や考えをお聞きできる絶好の研修の機会だと思っております。これもテトラSに取り組んでいるからこそと思います。ありがとうございます。



 この文章は、中身を抜粋して掲載させていただきました。本間校長先生、ありがとうございました。(笠井)10/15記載
 
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# by AQ-katsuyo | 2005-09-27 11:34 | 読み物