人気ブログランキング | 話題のタグを見る

話し合いの活性化

 話し合う。
 いつでもどこでも、話し合いは行われている。
 ペチャクチャ………。あまりにも普通に使われていることばは、空気のようなものかな?
 あまりにも普通だから、その重要性に気づかない。
 富士山に登って高山病になったときに酸素の重要性を知るようなものだ。

 でも、よく考えてみよう。
 君の話は相手にうまく伝わっているだろうか?
 うまく伝わる話し方、伝わらない話し方が当然ある。
 AQ(Activity Quality)の高い話し方は、伝わりやすい話し方になる。

 いかにして、うまく相手に伝えるか?
 それを工夫を重ねればAQの高い話し方に変わるものだ。

 特に家庭では、手抜きの会話がまかり通りやすい。
 ひと頃、「めし、風呂、寝る」というダンナのことばが当然のように言われた時期があった。そのダンナたちは、今頃定年になり粗大ゴミになったり、ひどいのは離婚届を突きつけられていはしないだろうか?

 どんなことばでも、自分の中で噛みしめてからことばを発すれば、相手を怒らせることも少なくなる。

 手紙を書くときに、下書きをしている人を見かけるが、その心構えがあれば相手を傷つけることばが不用意に口をついて出てしまうことはないだろう。

 自分のことばがどのように相手に伝わっているか?自己評価して見てはどうだろう?
# by aq-katsuyo | 2008-02-10 14:29 | AQ活用術

PTAについて

 孫が通う小学校のことで考えました。
 この小学校では来年度のPTA会長を決めるに当たって、推薦委員会なるものがあります。来年度人事を早く決めるのはいいことだと思いますが、この委員会は月に何度か集まって、候補者が決まったのは10月頃だったと思います。
 約半年に亘って「ああでもない、こうでもない」と半日近く話し合うたいへん忙しい委員会でした。私はこれを見て「何かポイントがずれている」と感じました。これには学校はノータッチなのですが、もう少し学校側の参加があってもいいのではないかと考えたのです。

 ここでは学校とPTAがどうしても一線を画しているように思えてなりません。
 実は半年に亘る委員会の席上では、主にお母さんが構成員ですから、わが子の話や担任の話が出たようです。このこと自身は当然のことですが、その話の中には問題の先生のことや情報開示を「個人情報保護法」にこだわって不審者情報までも教頭が握りつぶしているという情報も聞こえてきたようです。

 私がこの話を聞いて感じたことは、学校はまだ自らの塀を維持しようという気持ちが勝っているということでした。これでは、この委員会のように週に一回は集まる貴重な保護者の会合を学校は有効に生かそうという気持ちがないということでした。
 学校はあらゆる機会を捉えて学校からの情報を流し、学校を深く理解してもらおうとする努力が教育の仕事を円滑に行う上で、たいへん重要であるということを理解していなければなりません。
 保護者、そして周辺住民が学校の様子を深く知れば知るほどに、何か問題があれば、その解決に協力しようという気持ちになるのです。

 ここにも自分を知ってもらおうとする学校の意識の希薄さを感じました。学校はあれこれ取捨選択し、言葉を選ぶ前に先ず学校の考えを地域に知ってもらうことが使命であると考えます。それがとくに義務教育の教育機関の責務だと思っています。

 この学校の姿勢があれば、地域の協力姿勢はいやが上にも高まるはずなのです。
 この地域でも、不審者情報は絶えません。これは、住民全部の目が光っていれば相当数防御できるはずだと考えます。
 ところによってはPTAの動きがかなり不活発だという話も聞きます。
 
 街角でタバコを吸う中学生を見つけたら、あなただったらどうしますか?
 一番多く聞かれる答は、「学校に連絡する」という声です。これはどう見てもおかしいのです。学校から帰って遊んでいる子どもたちは家庭の責任で保護するものだし、地域内での非行は地域で指導するのが当然ではないでしょうか。

 ここに見られることは子どものことはすべて学校に丸投げするという姿勢ですし、学校ででもこれを丸抱えしているという姿がうかがえます。
 それが証拠に、「○○コンビニでお宅の中学生がタバコを吸っている指導してほしい」という電話に、先生が受話器に頭を下げながら現場に直行するというのがパターン化しています。

 子どもは親が育て大切なルールは地域がしつけるというむかしからの日本の流儀があります。そのために地域も一体化していたのです。しかし、利己主義の充満で「隣近所の一体感」はいつの間にか崩れてしまってきています。

 これを客観的に見ると何一つプラス面がないことが分かります。
 この間違った日本社会の流れにくさびを打つためにも、先ず学校が地域の一体化に一役買う気概を持つべきではないでしょうか。それが、やがて学校教育の上で地域の協力を得られることに結びついてくるのです。
 学校は常に巨視的な観点に立つことが必要だと思います。生徒指導のたいへんさは小学校も中学校も日を追って度を増しています。
 しかし、それ大部分は親の責任です。家庭、地域の子育ての歯車がかみ合わなくなっているために、教師は本来の仕事をはずれたところで苦労しなければならなくなっています。その苦労も学校の抱え込みのせいで外に見えないのです。
 
 「生徒指導は徒労だ」だと私は言いたいと思います。親や地域の大人の仕事を背負い込んでいて肝心な授業が見に入らないようでは、先生方の見識も疑われます。

 これはどちらがよい悪いではなくて、十分な話し合いの中から、もう一度役割分担を明確にすべきだと思うのです。そのためには、主導権を握る学校からもっと十分なコミュニケーションを図るにはどうしたらよいかを、提案してゆくべきだと考えます。
# by AQ-katsuyo | 2006-03-06 15:34 | AQ活用術

原点に還る

 近ごろ、日本の伝統文化が見直される傾向にあります。
 工芸部門では手作りが重んじられてきましたが、生活雑貨は大量生産品に制覇されていました。しかし、どういういたずらか原油高の中での石油の高騰で暖房費が高くついています。
 そこで「湯たんぽ」が大もてなのだそうです。これなど「ウォームビズ」の代表格ではないでしょうか。ブリキの湯たんぽを作る工場は大忙しのようです。このような話を聞くと先人の知恵が少し見直されているようでうれしくなります。
 高度成長期の日本は消費社会であり、使い捨て文化が主流を占めています。だが、環境の保護という新しい課題が出てきて、日本ばかりでなく使い捨てには反省の声が高くなっているようです。
 お金至上主義と言われたホリエモン氏が、司直の手で裁かれる段になって、お金で買えないものについての認識は高くなっていると思われます。
 働く女性が多くなって少子化には拍車がかかっていますが、経済と生活文化のバランスについてもっと考える機会が多くなると、お金という微視的なものから、人間としての生き方という巨視的な考え方がされるようになるはずだと思っています。
 お金という概念は刹那的な生き方にとっては最重要なものですが、「人の一生」がお金で縛られていることは嘆かわしいことのように思います。

 動物は人間ばかりでなく親の庇護のもとで育つことが当然になっているものが大部分です。しかし、現在でも小学校が放課になっても家に親がいないから帰宅できないでいる子どもは多いのです。そのために学童保育などの施設が作られていますが、その子どもたちは果たして幸せなのかは論じられません。それはむしろ禁句なのかも知れません。
 はっきりと言えることは保育施設に向かう子どもたちの心は決して晴れていないと言うことなのです。まっすぐ帰宅できる子を、本当にうらやましそうに見ています。このような気持ちをもって過ごしているわが子について、働いているお母さんはそれを十分に分かってあげているでしょうか?
 それはお母さんが働かなければならない環境の家庭も必ずあることは事実です。しかし、どんなに経済的に貧していようと子育てをしている間は、親の義務として子どもが健全な精神を持って持って成長するように最大の注意を払うべきだと思うのです。

 話がちぐはぐに聞こえそうですが、私が言いたいのはお金がすべてではないと言うことです。また、私たちの先人が豊かではない生活の中で残していった知恵は実に膨大にあります。それに目が注がれない時代がここのところ続いていることだけは、はっきりと認識すべきだと思うのです。
 それは前述した工芸などだけではなく、広い範囲に渡って多くの知恵の遺産があるのです。貧しくても明るく生きた先人たちの知恵は決して貧困時代のかわいそうな話だけではないと思います。
 その辺の理解に「ねじれ」があるように思えます。
 そのいい例が、今の子どもたちはだれのために勉強していると思っているでしょうか。多くの子が「先生に、親に勉強をやらされている」と思っているのです。これでは勉強に熱が入らないのは当然でしょう。
 人は自ら見つけた目標があれば努力します。しかし、人から与えられた目標に対しては消極的であり、批判も多くなります。これは個人主義がわがままになり利己主義になっているためですが、人の本性を考えると「個」として独立して生きていくことは出来ないのです。
 そうであれば、まわりの人と手をつなぐことは当然になります。と言うことは「まわりの人の言うことにも耳を傾ける」と言うことにつながります。自己主張だけでは世の中成立しないのです。この辺から、先人に学ぶという発想も当然出てきますし、それこそ「原点に還れ」と言うことだと思うのです。
 自分を大事にすることは重要ですが、同時にまわりも大事にしなければならないことをもっともっと意識しなければならない時代であると考えています。分かっているようで、それを自分の生活に生かせないのが現状ではないでしょうか。
# by AQ-katsuyo | 2006-02-07 12:22 | 読み物

年頭に考える

 関東地方は元旦の群馬での実業団駅伝、2日は箱根駅伝と恒例のスポーツ行事で幕を開けました。
 新年に臨み、この国の来し方行く末などを考えてみました。
 昨年は若者の間で「びみょー」という言葉が流行ったようです。その意味は「微妙」とは微妙に違うようです。
 「きみ、この仕事を引き受けてくれないかな」
 「はぁ、でもびみょーですね」
 このような例が適当かどうか疑問ですが、YESともNOとも言いかねるときにもこの言葉が使われるようです。
 石原慎太郎氏が「NOと言えない日本人」と言ったことがあります。これは日本人の外国人に対する弱腰を揶揄したものでしたが、ビジネスの世界ではそうであっても果たしてそれはいけないことだったのでしょうか?しかし、今はYESかNOかの時代になってきたように思います。
 昨年暮れに京都で起きた塾講師の塾生殺しのニュースなどを見ておりますと、指導が困難な生徒は殺すしかないという短絡的な動機のようです。これは黒白(こくびゃく)をつけないと気が済まないという気持ちが起因しているように思います。
 なるほど、近年は成績がよい・悪いという尺度だけで生徒の価値が決められてしまう傾向が大変顕著です。高校、大学の入試もその判断基準を中心に行われています。その中で、学力の国際比較が落ち込んできたので、文部科学省は学習指導要領を又変えようとする気配です。学校での学習結果は通信簿として反映され、家庭ではわが子の評価をそれを基準に行うようになっています。
 その結果が「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」という大人たちの言葉になっているように思います。もちろんそれは結構なのですが、近ごろの子どもは「キレやすい」と言われております。私は、その要因を大人たちの大人たちの一方的な黒白を決めつけて子どもたちに投げつける言葉にあるように思っております。
 子どもたちにとって「yes」か「no」しかない大人のことを大変窮屈に感じるのではないでしょうか。大人は、子どもに対して一方的に気持ちをぶつける割りには、子どもとじっくり話し合う機会が減っている家庭が増えているようです。それは、子どもにとって一方的な抑圧に映るはずです。そこで、我慢の体験の少ない子がキレます。あるいは感受性の強い子も自己表現ができないまま、キレて暴力やその場からの逃避を図るのではないでしょうか。
 大人はそのような子どもにどれだけ寛容にしているでしょうか?意外にも、子どもがキレたときに大人も一緒にキレていることが多いようです。大人も又「yes,no」の世界にどっぷりつかってしまっているようです。
 「yes」と「no」だけの世界は大変窮屈です。そこには、日本に古来からある「間」や「含み」というものが見当たりません。それは子どもの逃げ道を遮っていることではないでしょうか?子どもの世界に広い意味での「遊び」がなくなっているのです。
 そのような世の中を作り出したのは「経済至上主義」という「お金がすべてだ」と考える日本社会の風潮だと思っています。極言すると勉強するのは将来のお金のためだとする考え方です。これは非常に直接的な考えです。物事を間接的に考えるという技術の下手さを子どもたちに見るのですが、よく見ると大人たちも同じになっています。これがすぐに黒白をつけたがる思考につながっていると思います。これは「話し合ってみよう」とする場面を作りにくくしているように思います。すなわち、間や含みができないのです。
 このような社会で育つ子どもは不幸ですし、そういう社会はどう考えて不健全だと思います。この不健全さが続くと、お互いのコミュニケーションがないままの大人たちが出来上がってしまいます。親子の心の通い合い、向こう三軒両隣の人間の交流の復活によって、それは防げます。
 今年は、新しくなくてもよい。昭和の良さを見つけ、そこに回帰することで未来が明るく見通せる答が見つかりそうに思います。
 「生徒が宇宙人に見える」とある先生は揶揄していましたが、人間の本質にそう変わりがあるはずがないと思うのです。大人自身も、進歩しないと宇宙人との交流ができなくなりそうに思います。
 著者は、「話し合い」すなわちコミュニケーションの復活による人間関係不全からの脱却を訴えていますが、今年も私の微力を健全な社会の構築に向けて捧げていくつもりです。 
      
# by AQ-katsuyo | 2006-01-04 13:02 | 読み物

年の終わりに

 クリスマスも終わり、いよいよ歳末ですね。
 十大ニュースも発表され、流行語大賞なるものも例年のごとく発表されました。そのいずれを見ても楽しい話はわずかであるのが侘びしい限りです。
 このブログも楽しい話よりも、苦言や問題提起が多かったように思います。
 しかし、最近つくづく感じるのは若い人の中に爆発的なエネルギーを発揮している人が多く見られるようになったことです。とくに芸術部門やスポーツ部門で天才的な若者が多く出ました。
なかでも歳末に行われたフィギャースケートでの浅田真央さんは、オリンピック制限年齢に達していないということで代表には選ばれませんでしたが、頼もしい話です。
 このような人の話を聞いていると、自分をよく見つめていることに驚かされます。しかし、半面で歳末番組のクイズの回答者に芸能人や有名人がたくさん登場しているのを見ましたが、一般常識と思われている用語や故事成句などにまったく弱いことには落胆しました。
 そう言えば、今年はわが国の人口が初めて減少に転じました。いわゆる少子化の本格化です。それもあってか、国の無駄遣いにもようやく歯止めがかかり始め、来年度は超緊縮予算と国民の負担増型予算になりました。国民にとっては暮らしにくい世の中になることは避けられないようです。
 私にとって、今年の最大の話題はやはり「憲法改正」が本格的に政治のまな板に乗ったことです。意味不明の憲法前文や、苦しい解釈が続く憲法9条などは、いずれにしてももっと分かりやすくしてほしいと思っておりました。
 しかし、「憲法改正」というのは国民全部の大きな出来事です。そのためには、国民も憲法についてもっと勉強をしておくべきではないでしょうか。同時に「教育基本法」もかえられる見通しです。大きな意味で私はこれに賛成です。
 戦後の日本にもっとも欠けてしまったものは、自分たちが住んでいる日本という国についての教育が大きく欠落していたことのように思います。
 事実、近代史については学年の終わりになることもあり、実に大ざっぱにしか授業に登場しないという事実があり、国民自身が自分の目で国の歴史を認識するということにかけては、往々にして外国人に驚かれるくらい無知であるというエピソードが語られる始末です。
 わが国は、戦後資本主義社会で大きな発展をしましたが、その発展の根っこになっているものは「拝金主義」という軽薄なものに支えられてきたと言われています。その背景に、哲学や心がかけていたというのが今になって言われています。
 これは、人はなぜ生きるのか?という基本的命題にも軽薄な答しか持たないまま生活してきたと言うことではないでしょうか?そう言えば、国政治にも哲学が欠けていたように思います。
「国とは何か」「日本とはどんな国か」「自分はなぜ生きているのか」というような話題から、あまりにも遠ざかって生きてきてしまったようです。
 その結果、自分なりの生きる哲学をしっかりと持っている人が少なくなったのではないでしょうか?
 来るべき年は、そのような話をもっと日常的にするような生活をすべきだと考えています。
 
 夜空を見上げると、冬の星座が寒空に輝いています。その時にふと、宇宙の悠久な営みに接することができます。ぜひ、そこから人間が存在する根源的なものを考えてみてはどうでしょうか?
# by AQ-katsuyo | 2005-12-26 17:40 | 読み物